北条秀司の同名小説より「王将(1962)」の伊藤大輔が脚色、「陸軍残虐物語」の佐藤純彌が監督した人情もの。撮影は「恐喝(1963)」の坪井誠。ストーリー ※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください関西の生んだ名棋士坂田三吉は、終生のライバル関村八段との対局に見事勝利をおさめ、名人位に迫った。だが東京将棋連盟は、関村八段を十三世名人位に推した。それを不満とする関西将棋界は坂田三吉を関西名人第一世とした。この喜びを見る間もなく小春は君子ら二児を残して他界した。時代は昭和と代り、坂田の力将棋も時勢に抗しきれず、関東の近代将棋の前に、影をひそめていった。東京将棋連盟は新たに日本将棋連盟を設立、関西側棋士も合流した。四天王寺にある坂田のもとには、万年初段と異名を取る森川ひとりだけがとどまったのだ。坂田の再起にやっきとなる宮田の説得は、名人位抜きにした個人の三吉として関村との対局を認めた。昭和十一年三吉は実力日本一を賭けて、三番勝負を挑んだ。だが十五年のブランクは大きく遂に三吉は関東名人の前に屈した。「マ一度関村はんに勝つ迄は死んだらへんわいッ」鳴咽しながら、それでもなお王将(1962)への夢を捨てきれぬ三吉だった。時は戦時色に塗りつぶされた、昭和十三年のことだ、三吉の生活も落魄をきわめていった。君子もまた森川への恋情をたち切って、稼ぐ決意を固めていた。これを知った森川は将棋の道を捨てて故国を去っていった。それから四年、かつての名人関村は、坂田派森川六段の前に破れた。隻手の棋士森川六段こそ、戦場をかけめぐり、闘魂をみがいた、森川の再生した姿であった。その話題の中に、三吉は力つきた勝負師のみじめさを味わった。十年振りに関村名人と再会した三吉は、捨てきれぬ将棋への愛着を、「ま一遍あんたと指して、指しまかしたい」と女房小春をまぶたに泣きつづけた。昭和二十四年七十八歳で他界した三吉を、日本将棋連盟は、名人位、及び王将(1962)位を追贈した。昭和三十年のことである。