長谷川幸延の原作を「くちづけ(1957)」の舟橋和郎が脚色、「赤城の血煙 国定忠治」の福田晴一が監督、同じく片岡清が撮影した。主演は「伴淳・森繁の糞尿譚」の伴淳三郎、「怪談色ざんげ 狂恋女師匠」の花菱アチャコ、「大忠臣蔵」の瑳峨三智子に徳川夢声が加わる。ほかに、中村是好、山野一郎、関千恵子、山田周平など。無声映画華かなりし大正十年。千葉淳太郎は映画説明者にあこがれ、はるばる山形から大阪へ乗り込んで来た。そして千日前の常設館でヴァイオリンを弾く親切な楽士、淀川加助と知合うことが出来、加助を通じて当代一の弁士谷口緑風に無理矢理入門した。書生兼下男としての弁士修業は辛かった。そして淳太郎のズウズウ弁は殊の外の嘲笑をかった。みかねた緑風が娘のちどりに訛の矯正を命じた。そして半年後先輩の弁士がドロンをきめ込み、その穴埋めに舞台に立った淳太郎の説明は案外の好評だった。やがて正式の弁士に採用され活劇ものでは右に出る者がない位腕も人気も高まった。そしてまもなくちどりと結婚した。昭和三年。淳太郎は名実共に活弁王にのし上った。娘義太夫のお蝶を連れて温泉場に浮気など始めた淳太郎の派手な暮し振りに、ちどりは、火の車の家計のやりくりと、亭主の浮気に頭が痛かった。だが、淳太郎の全盛期と踵を接してトーキーが出現するに及んで弁士達は解雇を申し渡された。昭和九年、淳太郎は仲間と「無声映画大会」を謳ってドサ廻りを始めたが、巡業はどこも不入り続きで、時折師匠緑風と、淳太郎の妻ちどりが内職でたくわえた僅かな送金と、激励の手紙だけが、彼等の生る力の唯一の拠り所となっていた。その時、突如、ちどりから緑風が病気危篤と言う電報がもたらされた。淳太郎が駆けつけた時、既に緑風は臨終の床の中に身を横たえていた。緑風は淳太郎の手をしっかりとにぎったまま、もう一度昔なつかしい淳太郎の活弁の声を聞かせて欲しいと言うのだった。「はい……では先生の十八番だったチャップリンを……。」加助のもの悲しいヴァイオリンの伴奏と共に、淳太郎の活弁が始められると間もなく、緑風の顔に幸福そうな微笑が浮びやがて静かに眠るように死んでいった。