野村浩将『女医絹代先生』(1937/松竹大船/白黒)を観ました。監督:野村浩将。脚色:池田忠雄。原作:野村浩将。撮影:高橋通夫。美術:周襄吉。照明:加藤政雄。衣裳:林栄吉。音楽:万城目正。出演:田中絹代/東山光子/佐分利信/坂本武ほか。ストーリーは若い女医絹代先生(田中絹代)を主人公にしたラブコメディーで、物語り云々よりも、この作品はモボ・モガが東京の街を闊歩していたといわれる1937年に製作された映画。当時の事を想像してみると…………いくら「モボ・モガ」と言ったって、それは首都・東京の、それも一部の人達が享受できた豊かさであったはずで、一般庶民の生活は洋装より和装が中心の生活であったろうし、或は地方ではまだモンペを履いていたことだろうから、庶民にとってはモダンな生活は程遠いものであったはずだ。と、想像たくましく、当時の観客の気分になってこの映画を観たのだけれど、主人公が鼻っ柱の強い、若い可愛いエリート女性、「女医」であることが、かなり先を行っている。もちろん女医だから金には困らない。この絹代先生は最新のファッションを身に纏い、白い手袋をはめた手でスポーツカーのハンドルを握り運転し、冬は、これも最新のウェアーを着てスキーをしたりする。男性に対してもなかなか積極的で、自由奔放。当時の銀幕、田中絹代というスター女優が如何に輝いて見えていたかは、すぐに理解できた。理解できたというか、驚いた。どう驚いたかと言えば、絹代先生と助手を演じている東山光子のファッションがすごい。映画の後半はまるでファッション・ショー。当時を想像して観客になったつもりで観る、などしなくても、今でも通用する、というよりも「今ではあんな服、ひょっとしたら探しても見つからないかも知れない」という、悔しさを、現在の女性は味わうことになるでしょうし、とにかく素晴らしいのだ。日本最初のファッション雑誌と言っていい『装苑』の創刊が1936年。戦争が始まって休刊となり、復刊されるまで10年かかった。『ドレメ』の創刊はこのまだずっと後になる。『装苑』の「型紙の付録」でもってミシンを踏む「洋裁ブーム」は40年代後半、洋裁学校が地方都市にも沢山できはじめた頃から50年代後半まで続く。ちょっと説明が長くなりますけど、このまま続けます。で、このブームの背景には「ミシンの量産」がある。ミシンの製造行程というのは機関銃のそれと同じなのです(「ジューキ」というミシンメーカーがあるけど、重機であるけど、銃器でもある)。武器工場が揃ってミシンを量産し、日本は世界一の生産国となり輸出で外貨を稼ぎまくった。「シネマ」が「大衆のファッション」と結び付くのは、『ローマの休日』のAラインのフレアースカートに太いウエストマーク、白のシャツブラウス。『麗しのサブリナ』のトレアドルパンツ、ベタ靴。それと『君の名は』の岸恵子の「真知子巻き」の50年代中頃を待たなければならなかった。そして少し後の「太陽族」。それまでの40年代後半~50年代のファッションは、進駐軍のお古。或はそれを参考にしてミシンを踏んだ。強烈なアメリカかぶれ。パンパンのスタイルが女性のファッションをリードした。「ミリタリー・ファッション」もパンパンから生まれた。どこででもオシャレな服が、手頃な値段で買える時代というのは、早くても60年代を待たなくてならず、つまり、ある程度の量産品としての既製服の歴史は浅い。今では当たり前の「トータル・コーディネート」というディスプレイ、販売手法を百貨店で初めて取り入れた「ワールド」が、日本最初の「年間売り上げ1000億アパレル」になったのは、80年代に入ってからなのだ。『女医絹代先生』は1937年。「シネマ」が「大衆のファッション」と結び付く以前の映画だということになり、つまり庶民にとっては「絶対的憧れ」として、絹代先生はいたのであり、そして銀幕のスター田中絹代がいたということに、なりはしないかと思う。絹代先生はスポーツカーを運転するのだけれど、田中絹代が実際に運転している。サングラスをかけて見事にスキーをするのだけれど、これも田中絹代が実際に滑っている。この映画の翌年に田中絹代は『愛染かつら』で看護婦を演じ、この田中絹代の白衣姿の可愛さにによって、看護婦になる女性が急増したというから、ちょっと驚く。とにかくこの頃の日本のファッションは、趣味がいいし、なにはともあれ、映像の調子が明るくて綺麗ですし、マーガレットをさした花瓶が画面いっぱいに映るカットの素晴らしさ。鉄筋コンクリートの建物がシンプルに映って、女医の白衣、頭の後ろには、直径20センチ程の大きい白いコサージュ。映画冒頭の、田中絹代の黒いタイトスカートのスーツ姿の制服の可愛さ。登場する帽子のバリエーション。とにかく観ていて楽しい。そして佐分利信にも触れておかなければならない。佐分利信、28才。スーツ姿がキマって見えるのは、スーツはもちろん、シャツもこの頃はテーラーでの誂えですから、素材やデザインなど抜きにして、「身体に服が合っている」ということが「ダンディー」のすべてであり、この頃の男優のダンディーぶりには、参ってしまう。それと、田中絹代が運転するスポーツカーなのだが、これがめちゃくちゃ可愛い。クレジットに「ダットサン(ニッサン)」とあったので、ネット調べてみたら、見つけた↓「1936年式ダットサン15型ロードスター」。これです。36年ですから最新の国産スポーツカーということになる。ホロ付きのカブリオレ、車体のコンパクトさもさることながら、ホイールの大きさとシンプルなデザインが、めちゃくちゃ可愛いと思いません? 細部はココで見れます。後部のスペア・タイヤの部分が後ろに倒れるようにできていて、これが後部シートになる。映画の中でここに人が乗っているところが見れる。しかし、オカマされたら即死ですよコレ(笑)。それとホイールですが、中央のステンレス(?)の小さいカバーはネジ式になっていて、手で外すと4つのボルトがある。映画の中で田中絹代が運転している時に左後輪がパンクして、絹代がカバーを外して、ジャッキで車体をアップさせてスペア・タイヤに交換しようと、工具を持って奮闘するのだが、ボルトが回らない。そこに佐分利信が通りかかり、ボルトを外してタイヤ交換。「あんまり無茶な運転するんじゃないぞ。運転がヘタなようだからな」と言い捨て去っていく佐分利信。「にくいなあ、あいつ」と絹代。ここで絹代は佐分利信に惚れるのだ。これは名シーンだと思う。ジャッキがアップ・ショットになる日本映画なんか観たことがない(笑)。